今年も66回目の夏がやってきた。
そして、その日は何事もなかったかのように静かに終わっていった。

8月6日にかけて、広島市周辺の主要な国道では平和公園へ向かう各種団体が行進する姿を見ることができる。今年も例年通りというところだろうか。一方、けたたましい音を鳴り響かせながら黒塗りの街宣車で現れる団体も例年はかなりの数に上る。が、どういう事か今年は爆音が聞こえてこない。ウチは山陽道 広島インターチェンジから広島市内中心部への主要ルートである国道54号 祇園新道から程近い所にある。そのため、蝉の声ならぬ街宣車の爆音で8月6日の到来を知らされるという事が何とも言いがたい風物詩であったのだが、広島高速が開通したため広島市内への進入ルートを変えたのだろうか。(これらの団体は県警の誘導で広島城周辺に駐車していた。進入路にもお達しはあるのだろうか。)それとも世相が反映された結果だろうか。

また、昨年までと8月6日の捉え方、意味合いが大きく変わったという方が増えたことがツイッターのタイムラインからも伺える。勿論、それをもってしても広島、長崎の方とそれ以外の地域の方の温度差は、やはり埋めがたいものがあるというのが実感である。小学生の頃から平和学習を教え込まれた身からすると、広島以外で平和祈念式典のテレビ中継はNHKだけというのは少々、カルチャーショックを覚えたものである。だが、広島の小学生も「8月6日8時15分」を正確に答えられなくなってきているとの報道に、既に記憶の風化が進んでいることを思い知らされる。


広島の夕暮れ時
(夕刻、爆心地方向を見つめながら)
広島に生まれ育つと原爆に遭われた方の話を見聞きする機会は多くある。

お盆の墓参りで親戚の墓所を訪ねると墓石には原爆死の文字。亡くなったのは祖母の叔母。
30数年前、ウチの近隣は現在ほど道路も整備されていなく、広島市中心部に出ようとすれば国道54号線(現国道183号)に出てバスに乗るのが普通だった。その途中に親戚の家がある。祖母は親戚宅の近くを通りかかる度に畑仕事をする祖母の従兄弟と立ち話をするのが日課のようなものだった。

夏の暑い頃だったか、祖母に手を引かれバス停に向かう道すがら、そのおじさんをの立ち話を終えた後に祖母はふと、こんなことを言った。

「オバさんはね8月6日の朝に買い出しに行ったきり帰って来んかったんよ。あの子はかわいそうなんよ」

それまで、親戚で原爆に遭った人はいないと思っていた私にとって(まして小学校低学年だった)、学校で平和教育を受けても、どこか他人事にしか思えなかった。だが、近くに、親戚にそういう人がいる。そう思うだけでも小さいながらに何か感じるものがあった。

年齢を重ねる毎に人との付き合いも増える中、当然、原爆に遭われた方の話に触れる機会も増えてくる。

友達と会話をしていたところで閃光を浴び、塀の陰に隠れていて難を逃れたが、友達は真っ黒焦げになってしまったという方。

多くの被爆者が太田川沿いに北を目指して逃れていったというが、多くが途中で、辿り着いた先で息を引き取った。そういった村落一つ、旧安佐郡川内村(現広島市安佐南区川内)で当時12歳で大人と一緒にご遺体の焼却を手伝ったという方。

「そりゃぁねぇ、なんぼ子供じゃ言うても、あういう状況じゃと完全に感覚が麻痺するんよ。いうか、大人と一緒にご遺体を抱えて焼き場へ運ぶのに必死じゃったんじゃけぇ、考える余裕も無かったんよ。」

その生々しい体験は聞く者の心に直接何かを届けてくれる。

思いを伝える。

だが、原爆の被害に遭われた方々が高齢化していく中、その思いを伝えられる人はどんどん減っていっている。

時の流れというものは、ときに残酷である。
世代は変わり、「思い」を直接伝えることは当然の事ながら難しくなってくる。
様々な形で「記憶」を残しておくことができるだろうが「思い」を継承することは非常に難しい。

66年前の惨禍は既に遠い昔の出来事だろうか。
当時を生きた人は今の世に何を伝えたかったのか。

今を生きる私達は常に何かを問われているのだろう。

夏の終わりの夜空を見つめながら。

(8月31日追記)